【m sel.】『ずれ』観劇。

舘内美穂プロデュース

m sel.の第2回公演『ずれ』を観劇。






m sel.旗揚げ公演『only』から4年。




m sel.が再始動しているーー





4年と聞くとめちゃめちゃ長いけど、それほど長かった感覚はないかもしれない。


まぁでもやっぱ長い。



本来なら3年前にやっていたはずの第2回公演『ずれ』。



延期となって3年後の今、

観ることができて本当によかったねぇ



本当に観れると思ってたけどまさか本当に観れるとは。







「何の不安もなくまた演劇が観れるようになるまで」




”何の不安もなく”というとまだ人それぞれだとは思うけど、

あきらかに今は3年前のあの時とは違う。



おのおの自分の中の真実があるでしょうが、



あの時より確実に不安なく演劇が観れる今がある。




世界規模で国内規模で対策がんばった人も、ただ生きた人も、生きられなかった人も、みんなよくがんばった。







前回と同じく


【脚本】舘内美穂

【演出】平竜


の脚・演出コンビに


これまた4年ぶり2度目の出場。

山本真夢さんを加え

(甲子園みたいに言うな)





樹麗さんは7年前「どっかのだれか」で平さん、タテウチと共演していて

なんかこの組み合わせ懐かしいなぁとなったし。




青柳さんも同じく7年前。

「ロストマンブルース」でタテウチと共演して。


もう何年もずーっと『青柳伽奈』の名前を聞かないことないくらい長く幅広いジャンルの役をこなしていろんな舞台に出続けていて、すごい。


この方は見た目の華やかさもありながらいつもちゃんとしていた。




ふと7年前のロストマンブルースの役を思い出すと、

あの時もスーツぽいの着てしっかりとした系の役だった気がするし、

今回のれんのイメージとわりと一致するところもあるかも。





当時共演していた時のパンフレットや写真を見返して、

これがここに繋がっているのかぁと思ったりして


キャスト発表の時からなんだか不思議なエモーショナルな感じがした。


(エモいと言うのを避けてフルで言ったけどこれも違和感すごいよね)





ここから信じられないくらい、吐き気がするくらい引くほどネタバレします。



これより先は、DVDで観たいよって人はもちろん、

基本的には見ないでくださいな。


というか見れない。


さすがに長すぎる。
















”私、違う人間になりたかった”




前回公演『only』で使われた楽曲。

ふくろうずの「ごめんね」の冒頭の歌詞。



「(私たち)違う人間になりたかった」



このフレーズを今回の『ずれ』のあらすじのビッグタイトルに使っていて、

ずれのあらすじが公開された時からおぉーとなった。


(偶然の可能性も大きくあり)




『ずれ』を観たあとでこの曲を聞いても、いろいろと当てはまる部分も多く、


音楽と作品が繋がるというのは記憶に刻む意味でもとても良いなと思っている。

(関係ない可能性もとても大きくあり)








ここからは見た感想と、

勝手な自分の中の『ずれ』の物語の話を書いていこ。






萩と結理の姉妹関係を正確には把握できていないが、


父親の素行の悪さや支配欲などが起因して離婚した(離婚できた)際に、

萩は父のもとに、結理は母のもとにいったのだろうか。



癌治療のため入院し、うつ病も併発している母と、

毎日のように?病院に通って会話する結理も大変だっただろうね。


もちろん母も大変だった。





父(夫)からようやく解放された母だったが、

成長とともに父親のまさに逃げたかったその部分が見える娘に恐怖を抱き、よくない流れはどんどん大きくなっていったんでしょう。





外から見ると結理は常にディベートを仕掛けて相手に勝とうとする話し方で、基本的に支配しようとする会話調であり、人と会話する際に見せる笑顔も、やさしい口調も全てがディベートにおいて自分の思い通りの流れに相手を誘導するためのもので、彼女との会話はコミュニケーションと呼ぶには程遠い。


結理の登場シーンから皆、結理に怯え、

「結理に」というかそれぞれの過去に怯え。


些細な会話に勝ち負けなどないのに、失敗しても何しても別にいいのに。

結理は常に負ける事のできない世界に生きてる。




結理の行動は普通ではないけど、あーいう人が全くいないかというと全然そうでもないなぁと思う。


愛情が足りずに育った人が、あーいう遊びをしたりコミュニケーションの取り方をするケースはあると聞くけどまぁそんなの人それぞれだし、どこのだれとも知らんやつにあなたの家庭は愛情が足りなかったなんて言われたくもないだろうからこの話はやめよ。



結理自身も自分がおかしいことを頭のどこかでは理解はしつつも、頭の回転が速い分、「だって皆もそうじゃん」だとか、いろんな思考を巡らせて自分都合で情報を組み合わせることで、世界はそこまで優しくないし、みんなだって私と同じ、むしろ私がこのクソみたいな世界に合わせてやっているくらいの感覚すらあるのでは。



あれだけ強い言葉で強い態度を示している中で、

「母親と仲良くしたいだけなのに」という言葉も嘘ではないというのが、

人間の簡単ではない部分。



(洸に対して言う「仲良くしたいだけなのに」はまたちょっと違うと思うが)




正解か間違いか、平面でしか物を見ない他人事だからってなんも考えずに毎日他人のポスト(旧ツイート)に噛みついてなんか言ってる優しくないバカどもにはわからないこういう複雑性が人間というものだよなと



いけないいけない、X(旧Twitter)のポスト(旧ツイート)へのリプライ(旧リプライ)見てるときにイライラする日常のあれがでちゃってる。こういうのをここに書くとこれまで舞台の感想だと思われちゃうから別でやらないと。



感想書いてるといつもついつい世の中への個人的な怒りが爆発しちゃうクセがあって、すみません。





母が離れたかった父親に似ている自分が母のもとにいき、

両親どちらにも似ている母が求めた妹は父のもとに。





「逆ならよかった」


とはいうが、

父は母のような人を求めているから父目線では逆ではいけなかったわけで。




「逆ならよかったのに」「結理じゃない方がよかった」という言葉も、


実際に母が言ったかはわからない。


結理はいつも物事を拡大して捉える傾向にあるので妄想のようにも思えるが、

母も大変な状況で常に精神的に追い込まれていたから何かの言い合いの際にあれらの言葉を言ってしまったこともあるかもしれないね。




人と人との関係で言えば、


よくないことを言ったとしても、これまでの関係性や人柄や今の状況を踏まえて、拡大ではなく縮小して、思ってないことまで言ってしまったのだろうなと言葉だけを受け取らず優しく寄り添って物事を捉えることができるのも人間だと思う。


それと同時に


精神状態や関係性、タイミング、いろんなことが関係して、言われたこと以上に拡大に物事を広げて被害妄想と言われるような言ってないことまで思い込みどんどん関係性がおかしくなるのもまた同じ人間で。



ここにあるずれは、家庭環境が複雑じゃなくても、どんなに健康な人たちでも誰にでも起こる一つ一つなのだと思う。  







物語の後半で、各々が見ないフリをしていた一つ一つの問題が大きくなり、

少しのずれは大きな溝となり、そこにそれぞれが抱えている気持ちが溢れだした。


自分にとってはそれがそれぞれの立場でとても納得のいくものだったなと思って。




せっかくパンフレットに相関図もあるから見ながらいこ。




まず、れんが言っていることのほぼ全てに共感した。



家庭環境のこと、お兄ちゃんに吃音の症状があること、

認めたくはないが学校という環境の中でイジメられるには十分過ぎる。


忘れ物を学校に届けてくれるなんて誰が来たって恥ずかしいのに、

今のれんの状況でお兄ちゃんが来たらそりゃイジられる。


学校から電話もあったし、迷惑をかけないように自分の気持ちを犠牲にしてがんばって学校に行ったその日に。


神様そりゃないぜ。となって当然。




精神面で圧倒的なクソガキなイジメっ子どもにはシンプルにしねと思うし、

洸の言う通り俺が直接手を下すまでもなくどこかでバチはあたるだろうけど、

そういうことじゃないよね、れん。


「いい加減わかってよ、お兄ちゃん」


なんて言いたかないよな。




「真貴さんは私が辛い時、一度でもお父さんでいてくれた?」

「大丈夫じゃない人に『大丈夫?』って聞いて大丈夫じゃないって言うわけないじゃない!」



あったりめぇだよなぁ。

真貴さんはいつも何もかもから逃げて、なんなんだろうなぁれん。


俺もずーっと最初から思ってたよ。

大丈夫?じゃないでしょーーって。


真貴さん、なんで話を聞いてあげないんだよ。

真貴さんがみんなを大切に思ってることも大事にしたいのも本当なのはわかるけど、残念だけどそれはウソだよ。本気でみんなのこと守ってあげてよ。




れんはクラスの中でも、家の中でも誰よりも大人で、良い子にしてるのになんなんだよなぁ。

別に特別自分が良い人生を送ろうとしてるわけでもないし、

できるだけ迷惑かけないようひっそり暮らしてるのになんなんだよこの世界。




「いいぞ!もっと言え!喧嘩しろ!言ってやれそいつらに!」



と心の中でガヤを入れていました。




洸はれんの事を本当に想っているし、れんも洸のことを好きだし、

大切な家族であの実の兄妹の喧嘩はまぁ特別なシーンでもなんでもないと。


ただの喧嘩。



真貴さんに対しても、幾ちゃんに対しても。


れんが言ったことは別に言い過ぎでもなく、シンプルにありがたい意見にとどまっていてえらい。

あんなに感情爆発しても本当に大人でえらい。


えらすぎて、れんはそんなにえらくなくていい。と思ってしまう。

でももっと子供で居ることが許されなかったよね。



幾ちゃんも真貴さんも優しいし、相手の事を考えているけど、

芯の部分では物事が争いなく自分も誰も傷つかずうまく回るように生きようとして、結果誰も救えてない事に、自分でも気が付いていながら変われなかったんだから。




れんの一言はそりゃ刺さる。




あの2人には言えないことを結理には言える。

「友達が」という言い方ではあったけどれんにとって普通に話ができる相手がみんなが普通に話ができない結理なのもこの世界はおもしろい。


おつかれ、れん。

全然、こんなのはただの家族の喧嘩だから大丈夫や。




そう思いながら、あのシーンは終えたけど、

洸は良い事言ってたよね。


言うタイミング間違えただけで。


恥じることなんてないし、あんなクソガキと過ごすのも今だけだよほんと。



洸は優しくて強くて良い男だと思う。


大切だと思うことは簡単だけど、大切にするのは難しい。

真貴さんも耳が痛いよ。


どうやって、大切にしたらいいんだろうな。と悩むなんて素敵や。






真貴さんは、とても良い人で、

粕谷さんがパンフレットで言っていた通り「人に良くしたいという気持ちは保身にも無責任にも見得にもなりうる」というのがとてもしっくりくる。


「見守るのも父親の務めだよキリッ」じゃないのよ~~。



結理の時から反省してもしても全然変わってないけど、まぁなんか良い人ではあるし、

大前提として妹の娘だからって引き受けるのが当たり前じゃないし、

このシェアハウスがあることで救われてきたみんなだし、

真貴さんはちゃんと責任を持って行動しようとして、


すごいことですね。

十分すぎる。


突然父親になるなんて誰だって大変。
間違える。ずっと間違えて間違えて当たり前。


親としても人としてもいろいろと足りないけど、

真貴さんの存在はみんなの支えでみんな真貴さんには感謝しかないだろうな。


俺も「大丈夫なわけねーだろ!なんなんだよ!」って言いながら真貴さんのことは好きだった。

よく笑ってくれて愛される人ではあった。



この絶妙に責任感があってなくて優しくて優しくなくて、

うまく回っている時には頼りになるけど、何か起きると何もできない。

もうなんなんだよーって真貴さんを見事に演じていた粕谷さんすごい。







幾ちゃんは、

一つ前に「真貴さんと同じで~結果誰も救えてない」と書いたけど、


幾ちゃんは真貴さんと違って別に自分が傷つくことは恐れていない。

自分がどうなっても結理のことも、みんなのことも助けたいと心から思っていると思う。


ただ、なんだろうね。救えていない。

結理との最後の会話が全てなのだろうけど、難しいよねあのシーン。


「気づかないでね。そのままずっと何も。」みたいなやつ。


俺もよくわかってない。


真貴さんは薄々気づいていながら何もしなくてもなんとかなるかもしれないと常に何か起きるまで何もしない人で、

幾ちゃんは本当に何も気付いてない人。



毎日一緒にいて、れんの異変にも気づかない。

きっと樹が萩を好きなことも、なぎが樹を好きなことも。

結理と暮らしていた時も、いつもそばにいたのに何か起きるまで何も気づかなかった。



やっぱり真貴さんと似ていて、れんがこの二人が本当の家族みたいと思うのも無理はないのだけど、真貴さんと幾ちゃんは別のタイプで何もできない人だったのかな。



れんと喧嘩したあとグチグチ言ってる洸に言った

「それ言ってどうにかなるの!?過去は変えられないでしょ!?」

「大切だから、無くしたくないからしがみつくんだよ」

みたいなやつ、よかったです。




大切じゃなかったら、ずれたらもうおしまいで良いし。


そもそもずれが大きくなること自体が大切な人同士がすることで、

ある程度どうでもいい関係であれば多少のずれは無視して生きていけるし。


関係を修復しようとするのも、前提に愛情があってすることだもんね。







まぁ結理は、

母と真貴さんと幾と洸といて、

本当の意味で話を聞いてくれる人は確かに周りにいなかったかもしれない。



真貴さんと幾ちゃんには、本当に大切な話をすることを諦めてしまう気持ちもわかるし、そうなると自分はこの世界のことすべてわかったような気になってしまうし、どんどん1人になってしまった。



幾ちゃんの言う通り、きっと何度も叫んでたのに。

止められなかったね。


まぁそんなこと言ったって、幾ちゃんも真貴さんも悪くないけどね。

救えない側が悪いみたいなのありえないし。


それは本人たちが思うことであって他人が思うことじゃないしゆーて。




まぁ結理の「気づかないでね。そのままずっと何も。」は、

皮肉でもあり、本当にそういう存在がありがたいということもありなんでしょうか。


そもそも帰ってきたのが「なんで自分だけ」という気持ちからの復讐なのか。

だとしたら、アレはあーでこれはこーで。


でも復讐という言葉はさすがに似合わないかな。

帰ってきてやったことは家族の喧嘩の方が近いというか、

結理の帰宅は結果的にみんなが家族に近づいたわけで。


まぁ、自分の家に帰ってくるのに理由は要らない。






幾ちゃんに教えてもらった曲のシーンもこの物語ではきっと大事なシーンで。

とても含みがあったけど。


幾ちゃんはその曲を覚えていないし、

真貴さんの前でも流れてなかったし。



「懐かしいって思えることって実は贅沢」という結理の言葉も。


なんでしょうね。


自分だけでなく、一緒にそう思える相手がいるのは幸せなことだということもあるんでしょうか。


幾ちゃんはいつも寄り添ってくれて優しい人だけど、

本当の意味ではそうではないし、

結理は幾ちゃんから本当に大切に思われているという実感は得られなかったのかな。


わからんねぇ。









幼馴染の方にいくと、



今回の登場人物で好きだったのは、樹だったかもなぁ。


まずビジュアルがよかった。


樹は長身だけど重心がすごい下にある。

(どういう感想)


肩の位置が低い。


パーカー来て袖もなげぇし、

だらっとしていてあーいう感じの男に憧れる。

なんか余裕ありそう。



人生ゲームとかであのアバターあったらたぶん選ぶ。



風揆くん自身も、

とっても真面目で真剣に取り組むタイプの良い人なのか、

代わる代わるいろんな女の人の家に寝泊まりしているめっちゃクズ人間なのかが、

見た目から判断が難しくて底が見えない魅力みたいなのがあって好きだった。

(筆者の偏見がえげつない)



でも風揆くん、パンフレットの「お客様へ一言」でとても良い事を言っていた。







なぎが言った「萩の父親と同じじゃん」というのは

樹という人を表す上で非常にアレでしたね。


うん。アレでした。


間違ってるし、合っているし。

なぎはそういうつもりで言ったんじゃないし。

そもそも言ったこと自体後悔する人間あるあるの誰でもやるよくあるやつだし。



この物語ではいろいろ抱えていたものが、

後半でそれぞれわかって、感情も爆発してということになるわけですが、


爆発してもみんな大人で、そこが好きだったんだよな。


騒ぎすぎず、感情的になって人の話を聞かないこともなく。


みんなちゃんと相手の話を最後まで聞く。

遮らない。とても良かった。



その筆頭は樹だったと思っているけど、

なんかまぁずっとよかった。


ムカついても最後まで話を聞いて、一拍置いてから反応する。


アンガーマネジメント世代の方かも。

(そんな世代あんの)





「樹が自分で選んだ道」というのはその通りで。

萩のために自分を犠牲にしたという事実はマジで全くないと思った。0%。


そんなこと言い出したら人間なにするにも選択しててなにするにも犠牲にしてる。

「俺が好きでそうしただけ」というのはカッコつけでもなんでもなくシンプル事実。



友達や好きな人に起きたことで自分の人生が変わるなんて全員そう。



なぎは樹にそういう気持ちあるからそう言っちゃうし、

結理は萩へのアレコレでかき乱す目的でそう言っちゃうし、


周りが勝手にそんなこと言い出して、


マジでそんなこと思ってないからうるせぇうるせぇってなっちゃうよね。





樹のこと、最初になんか余裕ありそうと書いたけど、

やはりカッコつけるというのはある程度必要なことで


それは客観的な目線を持てているというか

常識を守ることだったり、優しくいるためにもちょっとは必要と思う。




まぁ、


萩がどっか行っちゃうのが怖いとか、

ホントのこと言わないのは自分のためだとか、



いやーまぁ言い返す言葉はないよ。

そうだよ。でも。


それでもそれがみんなにとって一番良いと思ったのも本当だったんだから仕方ない。



樹は、いろいろ考えた上でそれが良いと思ったのも本当で、

事故現場に居合わせた唯一の人間として、

萩のことが好きな人間として、



誰よりもこの事について考えて考えて、

自分のことより周りのことをちゃんと考えた結果が「言わない」選択で。


それがたまたま自分にとってもずっと萩と居られる道だったという方が、俺の中ではしっくりきた。




なぎも別に本当に萩のお父さんとやってること同じなんて思ってないしね。


ちょっと当たってたから変な感じになったけど。







なぎは、

明るくて樹のことが大好きな人だったけど、


とても普通の人間で。



嫉妬というと若干違うかもしれないけど、

恋愛感情のあれこれのアレでこういうときに言っちゃいけないことを言うのとかも、

それは言っちゃあかんやろーというよりも、そういうときって言っちゃうんだろうなと思うし。


全然ひどくもなければ普通。

人間、あれくらいの酷い事はして当たり前。



萩に「われぇ、なに被害者ヅラしてんねんボケェ」ゆーてた時は

さすがの樹もなぎに言葉をかけることはできなかったけど、

全然大丈夫。





なぎに関して若干感想少なめだが、

さすがに長く感想を書きすぎてちょっと頭が回らなくなってきたのもある。




そんな俺にもなぎはちゃんとスイッチ入れてがんばって元気にツッコんでくれる気もする。



ちょこちょこ頭が冴えてないこと言ってるなと思ったら、

その部分は深夜に書いてる可能性が高い。





そして、これを全て読んだ後に、
いやいや実は俺が1番あんまり触れられてないんだよねと苦笑いしている洸の顔が好きだったりする。(ここまでくると妄想癖)









萩は、


というか


一回脱線させてもらうけど。

まず裕菜さんの品の良さと声の良さとかとてもよかった。


千秋楽で、終わった瞬間から萩が涙止まらんくて、

途中からこれ裕菜さんが涙止まらんのやってなったけども


良い主演だった。


(11月にやる映画でぎぃ子さんと共演してた(入ってたチラシで知る))

(↑の映画にずれのチケット持っていくと200円引きらしい)





萩は父親の支配で、あえてそこ以外の世界を知らされず生きてきた中で、

「幼馴染」というかけがえのない大切なものができて、


日常のすべてが幸せで、一部の記憶を失ったあともそれは変わらず。



シェアハウスで聞こえる楽しそうな声も、喧嘩する声も、

いつも幸せそうな顔でみんなを見ていて

この日常が当たり前ではなくとても幸せだということをとても実感している表情をしていた。




樹が「良いわけない」というのがわかりきっている状況で

萩が「いいよいいよ自分は」というたびに、

なぎのモヤモヤは増えていき。



こういう時ってモヤモヤしている自分のことがまず何より嫌なのだが、

まぁ、なぎ、しゃーないよねの一言でしかない。


確かにイラッとくるよね。





萩が幸せなのに幸せじゃないみたいな顔をするというのも、おもしろいというか。


この日常が当たり前ではないと笑っているのもまた同じ人間で



「この人はこういう人」という断定は何の意味もないというか、

この世界はすべて時と場合+人それぞれで、同じ人でも1秒後にはかける言葉も変わってくる。



とりあえずX(旧Twitter)は他人にもっと優しくあるべきだよ。



公演が中止になったりしたら、うそだろと言っていいし、

地方から来た人が公演当日1時間前に中止の連絡を受けたら、

「新幹線代どうしてくれるんや!くそ!」と言っていい。言うべき。



『推しが悲しむようなこと言うのやめましょう。』

『誰も悪くない。』



それは自分が後から思うことで他人が言って良いことでもない。

どこのだれか知らんやつが引用して何を毎日喧嘩してんねん。


そんで何を毎日おすすめに表示しとんねん。


残念な時に残念だと言えないのはさすがにおかしい。



はい関係ない話。







萩(シュウ)という名前は、訓読みの「はぎ」の方が自分の中では馴染みがある読み方だったが




萩の花の咲く時期は7月から9月にかけてらしい。


金木犀は9月中旬から10月らしいから、

萩が産まれた時期が7月から9月あたりだからこの名前がついたのだとすると、

生まれてすぐに金木犀の香りがしたかもしれないね。



その瞬間はきっとまだ父親の支配もなく、幸せな記憶で萩にとって幸せな香りだったかもしれない。 



などというこじつけまで考えてしまうくらいにかっぽじりたくなる作品というのは、演劇をアホほど見ていた頃から何ヶ月に一度しか見なくなった自分としてはとてもありがたいことだ。



書いてないことまで考えてこういう意味だったんだとか伏線回収してるだのいろいろと読み手が勝手に好き故にどんどんその作品をより良いものにしてしまう現象を我が家では"古市理論"と呼んでいる。

(古市憲寿さんが以前どこかで「自分が作品を出したら(上記のように)みんなが勝手にいいものにしてくれるから何書いたっていい」みたいな趣旨の話をしていた(ソース見つからず))


我が家とは。 





劇場裏に咲いていた金木犀。

(千秋楽の雨の日ver.でちょい暗い)



写真だとわからないけど、ちょっとじゃなくてもう一面どっさり金木犀の木。


この舞台をこの時期にして劇場裏に金木犀の香りがするってすごい演出(古市理論)。







こんなものがあるからいけないんだ。


と、写真を投げ捨てる樹。

それに続くなぎ。



「こんな過去、なかったことに。」



樹のその言葉を聞きながら、
見つめながら、


結理は何を思ったかねぇ。



みんな勝手だよね、結理。





結理は何をしに帰ってきたのか。



知っておいて欲しかったらしい。萩には。


萩に写真を入れた封筒を送ったのは消去法で結理ですか。



結果的には、このシェアハウスの人たちが、気づいていながらもなんとなくやり過ごしていたずれを、ひっつけたというのは大きく間違っているけど、


ずれてるなと大々的に認識させたのはみんなにとって大きな一歩か。





楽しく言い合っている日常を見ながら(思いながら)

笑いながら泣きながら再び家を出て行った結理。



不器用ながら家族に触れた数日間を終えて、

どう生きていくのか、生きていかないのか。



あの結理という人を完璧に仕上げてきた山本真夢は、

かなり凄かったと思う。




タテウチ自身も

「脚本自体も結理から生まれた『ずれ』。

結理です結理がいます。本当に嬉しい。ひたすらに嬉しい

まゆおさんに結理をやって欲しくてここまで来た。」

(タテウチインスタより)


と言っていたけど、

この嬉しいというのが脚本家目線と観客目線では全く別物だとして、


俺も見た時に嬉しい気持ちがあった。


この(山本真夢の)結理でよかったと思った。


とてもとてもよかった。







最後、萩は樹となぎに、
「誰ですか?」と言う。



1日目に最後尾から見た時はわざとそういうことにしたのだと思った。


シーッと言ったのもそう思った一つだった。
(知らない人に、普通シーッはおかしい常識的に)



でも千秋楽を1番前で見ると萩が嘘をついているような顔には見えず。



本当にまた記憶がなくなった可能性もあるのかもしれない。

今はこちらの説の方が自分としては大きい。

いや、厳密には↑ここを書いた昨日はそう思っていたが、今日はやっぱり記憶なくなってないかもと思ったりして。



まぁこの辺は舞台の終わりとしてとてもよい含ませ方だなという程度にしておいて、忘れたor忘れていないはどちらにしてもあまり大きな話ではないかなと思うことにしている。






舞台の床に散らばった写真とオレンジの紙。



地面に落ちた金木犀は、
そのあとの物語でもとてもよい画を見せてくれていた。



とても綺麗でとてもせつない。



好きな演出のひとつ。






土曜日の昼と千秋楽の2回見たけど、

1日目が1番後ろで(1番後ろ好き)、
2日目は写真が見たかったのと、倒れる結理の表情も少し気になって1番前で見たのだけど。



ちゃんと樹となぎが制服とオレンジパーカー着て写真に写ってた。



まぁそこは別に目で見なくてもそこにリアル性がなくても観ている人は、見えなくても心の目で見えるし、全然よかったんだけど、ちょっとだけおーってなった笑


まぁ前の人に見えちゃうから自分が舞台やるとしても撮影するけどもちゃんとしていた。



前の席は見上げるので基本超見辛いのは当然でわかって座ったけど、一部下が見えることに意味も感じたので両方で見れてよかった。






それぞれの愛情が悲しい結果を生むこともあるけども、

大切な人たちといつまでも楽しく過ごしていきたいねー。


まぁずっとは無理でも最終的には。

ほどほどにでもいいから。









パンフレットも元第27班の鈴木あかりさんがデザインなど手がけていて

(光の加減で下から撮ってごめんなさい。正面で見たら2人とももっともっと可愛いですすみません。)


ジョンベティ、ハヴ・ア・ナイス・ホリデーは大好きな作品だし、蓼喰ふ虫もどれも、役者さんとしても好きな方なので、第27班の解散は残念ではあったもののこうしてm sel.に関わっていて好きな人たちが集まってくることも嬉しく。


スタッフの名前に「鈴木あかり」を見つけた時は、え!って嬉しかったな。




恒例のというか、あの一度では何を言っているか聞き取れないでお馴染みのオープニングの樹、なぎ、結理たちの難しい日本語セリフがパンフレットの裏表紙にたぶん書いてあって助かる。



パンフの写真もブロマイドも。
本当にすべてにおいて好きが詰まっている。




伊藤桃香と話せたのも嬉しかったぜ。



東野さんも大活躍だし、あの頃も懐かしい。





阿佐ヶ谷シャインシアターまで阿佐ヶ谷駅から徒歩で10分ほど歩いたけど、


m sel.の舞台に行く道はとても幸せで楽しい二日間だった。





俺のm sel.第二回公演『ずれ』は一旦これで終わった。

まさかの次回公演のお知らせが嬉しくて嬉しくて。

来年6月。



ただただ楽しみ。


そんで



今回で山本真夢さんの印象もまた一つ大きくなって、

まゆおさんの代表作と言って良い役に勝手に自分の中でなっているくらい

今回大きな存在だったと思うので、



次もまたm sel.×山本真夢が見れたらいいな。






完!


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