感想が書けない話。

ここ最近、舞台の感想が書けない。


書いてる途中でもういいやってなる。


運よく公開できてもツイートできない。


つまり誰も見ることはないわけだけれども。






時代の流れというのは間違いなくあって、

昔笑えたものが笑えなくなるというのは事実としてある。



それは今の人が笑えないのではなく、

昔笑えてた人も今笑えなくなっている。



自分も笑えなくなっている。




こうしたものは実際仕方がないことで、今を生きるためにみんな「昔がおかしかった」「よくなっている」ということにするほかない。



人間暇なので何かを考えたり何かを行動しなければ生きられない中で、今を正当化して自分たちが考えて起こした行動が正しいと思わなければいけないと思うし、それはある意味で正しい生き方だと思う。







人の感想なんて無限にあるし、同じものを見ても良いと思う人も悪いと思う人もいて、同じ人が観てもその時々で感じ方は違い、理解できる人もできない人もいて、自分の好きだった表現が嫌いだったという人もいて、鬼滅の刃が好きな人も嫌いな人もいて、だからこそ感想を読むのが楽しいというのが、本来そうで事実としてもそう。



みんな映画の感想は辛辣なことを好き放題言って同じ意見の人と共感し合うのに、アイドルのライブや小劇場の演劇となると急に「ただの個人の感想」に厳しくなる。



映画だと特にマンガ原作の映画化とかは楽しみにしている人と厳しく批判している人が混在し、そこに対してはあまり何も言われることもなく、互いに多くの共感が寄せられるだけで終わると思う。



ただ鬼滅の刃などで見られた「おもしろくない」という類の感想を言うと知らない人が怒ってリプしてくるような環境が生まれた場合は、感想を言っただけの何も悪くない人たちはめんどうなので感想を言うこと自体を辞退。そうすると一方的な良い感想しかこのネット上にはあがらなくなるという事象は映画やアニメでも見られたとは思う。





で、


特にアイドルの出る小劇場の演劇となると、役者やスタッフは映画のようなTVの中の人という抽象的な相手ではなく、実在する個人を応援する人が多いからか、「役が合っていなかった」とか言うだけでも『そんなひどいことを言うなんて最低』と思われてしまったりしている。


思われるところまでは当たり前に良いのだけど、自分の感想の中で上から下までを読んだ時に本質的に良かったと思う時以外は公開していなかったりして、良かった感想の一部として必要な気づきなんだけど、


読む人が理解できるとは到底思えず信用できないし、書いている時点でもう自分の中で先回りして自分の感想に対する合わない人からごちゃごちゃ言われている状態が続いていてとてもめんどくさく思う。





ドラマや映画、音楽やエンタメの感想として、

「なんか合ってなかったんだよね」

「綾野剛にやって欲しかったな」

「なんか稽古のシーンちょっと長すぎたよね」

とか


当たり前に話すことがあるのに、

なぜか舞台単独で見るとそんな会話をすることが許されない。



ただそれはなぜかでもない。

喫茶店で映画を見たあとに友達と会話しているシーンを、大多数の人が聞いていないから。



だから舞台の感想をツイートできないのなんてわりと当たり前で、

ハッシュタグをつけてつぶやく時点で大多数の合わないみんなを自分が集合させて、

なんなら良い感想が読めるものだと思って集まってくる。



その人たちに向けて価値観の合わない人が話しているのを聞くのだから、

それは不快で正しいとも思う。



読み手を批判しているが、実は感想を書いてハッシュタグをつけてツイートするという行為自体が全く自分の観劇後の感想スタイルと一致しない。



「あの人ならどう思ったんだろう」と自分と同じ価値観を持っている人が読みに来る場所だと思うし、それでいいから自分は純粋に思ったことをここに残していく。






ハッシュタグをつけてツイートしている人には「すべてが完璧によかった」感想しかなくなったけれど、


Twitterの感想というカテゴリには全肯定型しか生き残らなかった。



俺が作り手ならめちゃくちゃつまらない。


俺はがんばって作ったものがただただ褒められるのなんてごめんなのだが、


けどそうじゃない時代らしい。







「じゃぁ”そう”思った人たちはどこで生きていくのか」というのは長年ここで闘い続けた部分ではあって。



ここの演出は違ったんじゃないか。

なぜ結末はあーなったのか。

チケット代が高すぎる。

主役が下手過ぎてなぜキャスティングされたのかわからない。


などの純粋な感想を抱いている人たちはどこで生きていくのか。



良い感想が浮かんで共感して生きていける人たちは良い。

感想を読んでそうだよねと思えるし、ワクワクして生きていけるだろう。



じゃぁ例えば、主役が稽古中から全然セリフも覚えず適当に取り組んで全くよくなかったのに、お客さんが大絶賛していて本気で取り組んでいる自分がバカみたいだと思っている役者がそれらの絶賛ツイートを読んで、「ありがとう」と思うのか。


観たそのまま「あの主役の人なんなの。一人だけ全然よくなかった。」と純粋な感想を言った方が、真面目にやってた周りの役者は「そうだよね!やっぱりお客さんには不真面目な態度が伝わってる。よかった」と思うだろう。



「今回あえてこういう演出がされていたけど、前の方が好きだった。」


とかも。


そういう意見も「そうかー」と思って終わるだけだと思うし、もしくは「私もそう思った」という人がたくさんいてもいいし、作る側からの「やっぱりそうかぁ」と思う人もいるかもしれないし、役者からも「私もそう思ってたけど今回はこっちの演出になった」もあるかもしれないし



多大な時間を使って観た感想を言うというのは、それ自体は本来、ポジティブなことだと思う。




作る側の目線でも、

あらゆる制約で手を抜いていたりすることもあって、純粋に答え合わせもしたいと思う。



よくない感想だったとしても


「ここはこういう理由であえて雑にしたから今回は仕方ないんだよねぇ。」「ここは確かに手を抜くべきではなかったかもしれない。」


とか。


どんな意見でも「この人はこう思ったんだ」という範囲内から飛び出ることはないし、正直自分がこれまでに書いてきた感想ってほとんどが褒めている中でもこうも思ったというレベルだし、普通に情報を処理できる範囲だと思う。




そして、自分の感想なんて全体のたった1の感想。


それをどう処理するかは読んだ人が決めることで、

今はそこが信用できない。




過激派の被害者の人たちは、すぐ誰よりも偉くなってしまう。

勝手に傷ついて悲劇的な主人公になって感想を書いた自分を悪者に仕立てあげてしまう。



自分と別の考え方をする人の存在を許すことができないという、この層がいる限り


今、「文章を書く」という行為自体が悪魔のすることだと思われていると思う。



今、俺の文章は人を幸せにできない。



でも、あらためて聞くけど



じゃぁ、「そう思った人たち」はどこで生きていくの。



とそれだけは聞いてみたい。




おもしろいと思ったあなたはいいけど、

おもしろくないと思った人はどこで生きていくの。



そこが好きなあなたはいいけど、

そこが好きじゃない人はどこで生きていくの。



とにかく嘘をついても仕方ないし、

黙っているということはつまらなかったということと思われるのも嫌だし、



思ったことを言葉にして

ちゃんと気持ちを伝えて


そういうのが必要な人もいるので


あなたのその「良い感想」を正義に振りかざして、俺たちの正義を否定するのやめて。


俺らはずーっと今まであなたたちの良い感想を否定してきてないでしょう。





ひとつもまとまらなかったけど、今日は更新します。






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